2024年~2025年                                      

2023年度もおおかたは無事に過ぎ、2024年3月には恒例となった南仏ロマネスク調査旅行に出かけました。
例によってパリに着いてド・ゴール空港のホテルに一泊し、翌日TGVで南に向かい、
アヴィニヨン(Avignon)のTGV駅のハーツでレンタカーを借りました。
タラスコン(Tarascon)のルネ王の有名な城やサント=マルト教会(Collégiale royale Sainte-Marthe)などを
あらためて見学しました。

   
    タラスコン、サント=マルト教会     同教会地下クリプト、4世紀初め頃の石棺      タラスコン、サン=ヴィクトール礼拝堂


タラスコンの後はアルルをへてサン=ジルへ。
サン=ジル(Saint-Gilles)ではこれもまた有名な修道院教会、遺構となったその後陣、そして地下クリプトを
訪問しました。ここにはこれまでも何度か来ていますが、来るたびに新たな発見があります。
サン=ジルについては、すでに文化社会学部紀要に原稿を書いていますので、そちらを参照して下さい。
南フランス・ガール県南部のロマネスク聖堂(2)-サン=ジルとその周辺
   (『東海大学紀要 文化社会学部』第10号、2023年9月)

サン=ジルに一泊したのですが、宿泊したその翌日の早朝に
激しい胃痛に見舞われました。
12年前に受けた消化器の手術(膵頭十二指腸切除)の後遺症がいまだに続いています。
私は胃の下半分がないのですが、当然胃の下の出口の「幽門」もありません。
なので膵液や胆汁、腸液などが半分残った胃の中にいきなり「
逆流」して来るのです。
昼間などはいつも水の入った小さなペットボトルを持ち歩き、
「あ、逆流が来るな」と思ったら急いでその水をガブガブ飲んで消化液を押し流します。
時々それが間に合わなくて、強力な消化液が胃の中を荒らすだけ荒らして行きます。
そうしたら痛いし苦しいし大変です。ひどい時は何日か胃痛が続きます。
医者によると、これはもうどうしようもないのだそうです。一生続くそうです(やれやれ)。

いつこの「逆流」が来るかは分かりません。
突然来ます。
頻度は1~2ヶ月に一度くらいです。
大抵は日中の空腹時(特になぜか夕方あたり)に来ます。
今回サン=ジルでは、珍しいことに早朝の寝ている真っ最中に来ました。
こうなるともう水を飲むのは間に合いません。
この後、3日ほど胃痛が続き、食事にも困りました。
せっかく聖ジルの墓(サン=ジル修道院教会地下クリプトにある)にお参りしたのに、
何がこの聖人の怒りを買ったのでしょうか?
上記の原稿で、何か彼の怒りを買うようなことを書いてしまったのでしょうか(笑)?

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サン=ジルを出て、あちこち回った後で、前回の南仏調査旅行で
大変なレンタカー・トラブル(山の中でのパンク騒動)に見舞われた際、
バニョル=シュル=セーズの自動車修理工場(FIRST STOP)のオーナーが暖かく助けてくれたのですが、
今回は日本のウイスキーをお土産に持参し、その工場に立ち寄ってあらためてお礼を述べました。
「そうか、あれからもう1年たつのか、早いな~。また何かあったらいつでも言ってくれ」
との、相変わらずの優しいお言葉でした。
ウイスキーは大好きなのだとか。良かった。

あの時は、彼がフランス人俳優のジャン・レノに似ていると思ったのですが、
1年たって、かなり太られたようで、今回あらためて会ったら、
ジャン・レノにはあんまり似ていなかったかも(笑)。
 
このオーナーの名前は「
ジル」さんと言います(名字ではなくファーストネーム)。
サン=ジル修道院といい、このオーナーといい、私はなにか「ジルさん」に縁があるみたいです。
しかし私にとってこの工場オーナーのジルさんこそは、
まさしく聖人すなわち「聖ジル」なのです。

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2024年の夏休み、学科の
「ヨーロッパ・アメリカ実地研修」(文学部歴史学科西洋史専攻との共催)に、
引率教員としてではなくて、一般客として家内と参加しました。
今年の実地研修は、
ギリシアとトルコでした。

この研修旅行は、学科の学生にとっては単位がもらえる「授業」なのですが、
実は、単位がいらないという学生が毎年参加したり、一応大学関係者ということなら参加可能な、
東海大学関連旅行会社(イーエスツアー)が実施するツアーでもあるのです。
旅行会社としては、参加者が多ければ多いほど利益にもなります。
しかも参加人数が多いと、1人あたりの旅行代金も安くなるし。
私も一応教員なので、正式な「引率教員」のボランティア的な補助の役割も果たせます。
家内は参加者のおよそ半数を占める女子学生対応も出来ます。
女子学生は、体調不良とか気分が悪いとか、その他いろいろあります。
夏のギリシアとトルコでは気温もかなり高いのでなおさらです。
そんな時は、女性の対応係がいると何かと安心でしょう。

今回の正式な引率教員は文学部歴史学科西洋史専攻の先生でした。
大学の研修旅行なので、変な所には行かないし、ショップでの営業もないし、
引率教員の説明も聞けるし、ツアコンさんもいるし。
そして一度にギリシアとトルコの2つの国に行けるというのも魅力でした。

私は今から
36年前の1988年5月に一度ギリシアには行ったことがあります。
  →フランス留学中のギリシア貧乏旅行についてはこちら。
でも私もトルコは初めてでした。家内はギリシアもトルコも初めてです。
これは、私費を払ってでも参加する価値があると思った次第です。

2024年8月28日、朝の9時に成田空港に集合でした。
私が住んでいる町田からその時間に成田に行くのはかなりキツいので、
成田空港に隣接するホテル日航に前泊しました(JALのマイルが貯まる・笑)。
予定では11h20のトルコ航空(ターキュッシュ・エアー)でイスタンブールまで飛び、
さらに乗り換えてギリシアのアテネに到着のはずでした。
さて、荷物も預け、出国手続きも済ませ、トルコ航空の機内に搭乗しました。
シートベルトも締めて、さあこれから離陸だ、という時に、いきなり機内アナウンスがありました。
当機はエンジンに異常が見つかり離陸を見合わせます。お客様は全員いったん飛行機を降りて下さい

学生たちも含めて乗客はいったんゾロゾロとターミナルに戻りました。
そしてその数時間後にトルコ航空のその便は、なんと「
欠航」となったのでした!

結局、大学の旅行会社のさまざまな調整によって、
40名以上いる実地研修の参加者は、エミレーツのその日の夜便でドバイ経由でアテネに向かうグループと、
その日は成田のホテルに泊まり、翌日の便でアテネに向かうグループの2つに分かれました。
私と家内は、幸いにもビジネスクラスだったので、エミレーツの夜便でドバイに向かいました。
でも朝の9時に成田空港に集合して、エミレーツに乗ったのは22時30分でした。
なんと12時間以上、成田空港にいたことになります。
でもビジネスクラス・ラウンジに2回とか入って、なんとか時間を過ごせました(学生の皆さんゴメンナサイ)。
もう1つのグループはさらにまるまる1日成田で過ごすことになったのでした(もちろん
成田空港隣接ホテルの支払いはトルコ航空負担ですが)。

   
  トルコ航空の離陸前の安全ビデオ。
     これを見た後、欠航に。
    エミレーツ航空の離陸前の安全ビデオ。
       CAサンがステキです。
    エミレーツ航空のビジネスクラス・バー


エミレーツでドバイに到着。
ドバイなんて、私の人生プログラムにはなかったところです。
こんなことでもない限りは来なかったでしょう。ドバイ空港はとにかくデカかったです。
アテネ行きの夜便が出るまで10時間ありました。
「ドバイ組」の学生たちは、いったん出国して嬉しそうにドバイのモールに買い物に行ったりしていました。
私と家内は外気温40度越えの外には出たくなかったし、モールでのショッピングにもまったく興味なかったので、
トランジット・エリア内にある
空港ホテルのデイ・ユースで過ごしました。
シャワー浴びて寝ました。ドバイにいるのになんともったいない(笑)。
あとは
ドバイのビジネスクラス・ラウンジで、食べて飲んで過ごしました。
さすがドバイのラウンジです。豪華さと食事の豊富さ。アラブの国なのに、アルコールも充実。

パリ、シャルル・ドゴール空港のビジネスクラス・ラウンジも、少しはドバイを見習った方がいいと思います。
ド・ゴールのラウンジ(特に2E)は、何だか雰囲気が暗くて、キツキツで狭いし、フランスなのに料理もイマイチ。
いつも混んでいて、フロアのスタッフの態度もよろしくありません。
同じCDGのT2でも2Fのラウンジはもう少しよさそうです。2Eのものは、何とかした方がいいと思います。

 
      ドバイ空港。行っても行ってもショップ。     ドバイ空港トランジット・エリア内にある空港ホテル

 
                     ドバイ空港のビジネスクラス・ラウンジ

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ギリシアのアテネは、
36年ぶりでした。
36年前は
チョー貧乏旅行でした。お金がなくていろいろ苦労しました。
滞在したのは一泊約150円の場末の安ホテルでした。トイレもシャワーも共同でした。
36年後に今度は自分の学科の学生たちと、しかもビジネスクラスで自分の奥さんと、
再びここに来るなどとは、まったく想像もしませんでした。
ホテルは屋上にプールとレストランのある新しくて立派なところでした。
(そりゃあ、研修旅行の学生たちを場末の安ホテルに泊めるわけにはいきませんね・笑)

36年前は、アテネの「半分アジアっぽい雰囲気」を満喫しました。
西洋文明の源流でありながら、19世紀半ばまでおよそ390年間もオスマン・トルコに
支配されていたのだから当然と言えば当然なのですが。
今回は「半分」とは言わないまでも、「4分の1くらい」はやはりアジアだと思いました。

 
           ↑ 1988年5月の私(27歳)         ↑ 36年後の2024年9月の私(63歳・笑)

アテネ市内を、相変わらずトロリーバスが走っているのにも驚きました。
もちろん走っているバス自体は新しいものですけど。

 
  ↑ 1988年5月のアテネのトロリーバス(撮影・中川)        ↑ 36年後の2024年9月のアテネのトロリーバス


 






 


 





 

 
     

   
         

   
         
         
   
         




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